善福院釈迦堂

―善福院釈迦堂―
ぜんぷくいんしゃかどう
和歌山県海南市
国宝 1953年指定


 和歌山県海南市、和歌浦湾南の谷間に善福院という天台宗の寺院がある。善福院は建保2年(1214年)にこの地に建立された廣福寺(こうふくじ)五ヶ院の一つであり、かつては廣福寺の塔頭として廣福禅寺という名であった。その後廣福寺は衰退してしまい、廣福禅寺も明治時代に善福院として改められた。現在の境内は決して広いとは言えないが、鎌倉時代の禅宗様仏殿である釈迦堂だけは今も残っており、かつての廣福寺の繁栄を今に伝えている。




釈迦堂はどっしりと安定感のある禅宗様の堂である
二階建てに見えるが下の屋根は裳階(もこし)という庇で、実際は一階建てである

 そもそも廣福寺は、臨済宗の開祖であり日本に喫茶を広めたことで知られる栄西によって建てられた寺院であるとされ、廣福寺はもちろん、その塔頭であった廣福禅寺もまた臨済宗の寺院であった。室町時代の廣福寺は、紀伊国の守護である畠山氏に使えていた加茂氏の菩提寺として栄え、七堂伽藍を備えるほどの規模を有していたのだが、加茂氏が没落するのに伴い廣福寺もまた衰退してしまった。その後廣福寺は真言宗に転宗し、なんとかながら存続していく。




屋根と裳階、および二手先の組物
軒丸瓦にはかつての寺名であった「廣福禅寺」の銘がある

 江戸時代に入ると、廣福寺は紀州徳川家の菩提寺の候補となったことを受け、紀州徳川の宗派である天台宗に改宗した。しかしながら菩提寺は長保持に決まってしまい、廣福寺は復興のチャンスを逃してしまう。それでもなお廣福寺は続いていき、明治時代に入るまで廣福寺には三ヶ院が存続していた。それらも明治期に一つにまとめられ、名称も善福院という名に改められ、そして現在、廣福寺に残っていた建造物は釈迦堂一棟だけである。




土間に敷かれた瓦が美しい釈迦堂内部

 この釈迦堂は、鎌倉時代の嘉暦2年(1327年)に建てられた禅宗様(唐様)の仏殿である。禅宗様は鎌倉時代に大陸に渡った僧侶たちが、禅宗と共に宋から伝えた建築様式で、主に禅宗の寺院に多く用いられていたことからその名が付いた。この釈迦堂は禅宗様が伝わって間も無くの頃のものであり、初期禅宗様建築として非常に貴重である。現在までに残る禅宗様の建築物はその多くが室町時代のものであるため、鎌倉時代のものはこの善福院釈迦堂と山口県下関市の功山寺仏殿しか現存していないのだ。




須弥壇上部の鏡天井

 通常の禅宗様建築は入母屋造りの桧皮葺き、もしくは柿葺きであるが、善福院釈迦堂は寄棟造りの本瓦葺きであり非常に珍しい。入母屋造りはどうしても屋根が高くなってしまうのに対し、寄棟造りの善福院釈迦堂は屋根の高さが抑えられ、勾配も緩やかで安定感がある。桁行、梁間それぞれ3間の方三間で戸は桟唐戸(さんからど)、壁は竪板壁(たていたかべ)で花頭窓(かとうまど)は無い。壁の上部には広い間隔の弓欄間(ゆみらんま)があるが、これらは後世に手が加わっている可能性が高く、元はもっと細かい間隔であったようだ。




日本では珍しい燧梁(ひうちばり)

 内部は畳を敷かずに土間とし、代わりに瓦が敷いてある。むき出しの礎石の上に柱が立ち、天井板は張らず梁がむき出しのままだ。これらは禅宗様の典型的な特徴である。中央には須弥壇が置かれ、その上には厨子に納められた本尊の釈迦如来坐像が安置され、須弥壇の上部天井は装飾の無い一枚板の鏡天井となっている。また、堂内四隅には燧梁という筋違のように斜めに架けられた梁がある。この燧梁は中国では比較的多く見られるものの、国内においてはここと広島県の鞆にある安国寺釈迦堂(重要文化財)にしか現存していない。

2009年01月訪問




【アクセス】

JR紀勢本線「加茂郷駅」から徒歩約30分。

【拝観情報】

境内自由、釈迦堂内部拝観は9時〜16時。

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