―苗村神社西本殿―
なむらじんじゃにしほんでん
滋賀県蒲生郡竜王町 国宝 1955年指定 苗村神社は、琵琶湖の東岸、水郷で有名な近江八幡よりさらに陸側に入った竜王町の田園地帯にある古社である。その起源は定かではないが、延長5年(927年)に編纂された延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)には、既に長寸(なむら)神社の名で記されている。この延喜式神名帳に記載されている神社は延喜式内社、あるいは式内社と呼ばれ、式内社であることは由緒正しい歴史を有する神社の証でもある。その苗村神社の境内は、東社地と西社地の二つに分けられており、両方にそれぞれ一棟ずつ本殿が鎮座している。そのうち西本殿は、鎌倉時代後期の徳治3(1308)年に建てられた現存する神社建築として非常に古いもので、国宝に指定されている。 苗村神社の周囲からは、古墳や須恵器など、古墳時代の遺物が数多く発見されており、苗村神社はこの土地の有力者による祖先崇拝から始まったと考えられている。日本書紀には「新羅の王子、天日槍命(あめのひぼこ)が菟道河(うじがわ、宇治川の事)を遡って近江国の吾名邑(あなむら)に入り、暫く住んだ。これをもち、近江国の鏡村の谷の陶人(すえびと)は、天日槍の従人である」という記述がある。苗村神社の西には鏡山が存在し、さらにその周辺からは古窯の跡が数多く発見され、須恵という地名も残っている。この事から、苗村(長寸)という地名はこの吾名邑が変化したものである可能性が高い。よって苗村神社を興した有力者とは、須恵器の技術に長けた渡来人であった可能性がある。 苗村(長寸)神社は元来、現在の東本殿の位置にのみ社殿が建つ神社であった。しかし安和2年(969年)に大和国吉野の金峯山から国狭槌命が勧請されると、本殿の西にも社殿が造営され、そこに国狭槌命は鎮座された。それが現在の西本殿である。よって、東本殿には苗村の産土神である那牟羅彦神(なむらひこのかみ)および那牟羅姫神(なむらひめのかみ)が、西本殿には国狭槌尊がそれぞれ祀られている。なお、東本殿の那牟羅彦神と那牟羅姫神は、この付近一帯に工芸技術をもたらした神であると伝えられており、先の天日槍の従人たちによる須恵器製造技術伝来の伝説とも一致していることが分かる。 国宝の西本殿は、一間の向拝を持つ三間社の流造(ながれづくり)。これは滋賀県内の古社に多く見られる形式である。屋根は桧皮葺。納められていた棟札より、建築年は鎌倉後期の徳治3年(1308年)と判明している。内部には厨子が納められているが、これもまた本殿と同時期に作られたものであるとされ、西本殿の附けたりとして国宝に指定されている。なお、西本殿のみならず、東本殿もまた一間社流造の社殿が残されており、これは重要文化財に指定されている。その建物は西本殿より幾分新しく、蟇股の様式から室町時代のものであるとされ、また社殿前の石灯篭には永享4年(1432年)との銘があることから、その時期の建造であると考えられている。 西本殿の右隣と左隣には、それぞれ十禅師社本殿と、八幡社本殿が鎮座している。いずれも桧皮葺の一間社流造で、正確な建造年は明らかになっていないものの、その建築手法は古式を止めており、これらもまた前述の東本殿と同様の1430年頃に建てられた可能性が高いとされ、重要文化財に指定されている。十禅師社は日吉山(比叡山)における神仏習合の神、山王権現上七社の一つである十禅師の分霊社であり、そこには当時の天台宗勢力の影響が垣間見れる。八幡社本殿は正面の格子戸のみならず東側面にも扉口を開けていたり、妻飾に花肘木(はなひじき)を入れるなど、東本殿と良く似た特徴を持つ。 西社地の入口には、入母屋の茅葺屋根を持つ三間一戸の楼門が建てられている。この楼門の建築年代も正確には明らかではないが、蟇股や斗拱(ときょう)の形式から応永年間(1394年〜1427年)頃の建立と考えられている。茅葺であるためその屋根は非常に巨大なものとなっており、禅宗様建築のような反りも見られる。屋根に比べて下部は壁が少なく開放的であり、重々しい屋根とは対照的に軽やかだ。また楼門をくぐった右手には、簡素な建物の神輿庫が存在する。これは元々、天文5年(1536年)に御奈良天皇が苗村神社に「正一位」の神位を奉授した際に装束召替仮殿として建てられたものだ。その後、神輿庫として用いられるようになったという、非常に珍しい遺構である。 2009年05月訪問
【アクセス】
JR東海道本線「近江八幡駅」より近江鉄道バス「八幡竜王線」で約20分、「川守バス停」下車、徒歩約10分。 【拝観情報】
境内自由。 ・大笹原神社本殿(国宝建造物) ・御上神社本殿(国宝建造物) ・神谷神社本殿(国宝建造物) Tweet |