清白寺仏殿

―清白寺仏殿―
せいはくじぶつでん

山梨県山梨市
国宝 1955年指定


 山梨県中央部に広がる甲府盆地の東部地域。周囲をぶどう畑に囲まれたのどかな場所に位置する清白寺は、鎌倉時代末期に夢窓疎石(むそうそせき)が開いたとされる臨済宗の仏教寺院である。その境内には室町時代中期に建てられた禅宗様の仏殿が鎮座しており、素朴なたたずまいの参道からは想像付かないほどの歴史風情を感じさせてくれる。その清白寺仏殿は、禅宗様建築として最小の規模のものではあるものの、禅宗様の特徴がコンパクトにまとまっており、また内部の墨画や彩色など他の禅宗様建築には見られない特徴も備えていることから、小規模禅宗様仏殿の傑作として国宝に指定されている。




ぶどう畑の中にポツンとたたずむ清白寺総門

 清白寺の寺伝によると、創建は鎌倉幕府滅亡の年である正慶2年(1333年)。足利尊氏(あしかがたかうじ)を開基として、夢窓疎石が開山したと伝えられている。京都の天龍寺(てんりゅうじ)庭園や西芳寺(さいほうじ)庭園、岐阜の永保寺(えいほうじ)庭園や鎌倉の瑞泉寺(ずいせんじ)庭園など、数々の名園を手がけ、作庭の名手と謳われる夢窓疎石は、幼少期より甲斐国にゆかりのある人物であった。清白寺が開かれるその3年前の元徳2年(1330年)にも、恵林寺(えりんじ)という臨済宗の禅寺を甲斐国の塩山に開いており、そこには夢窓疎石が作庭したと伝わる庭園が、今もなお残されている。




小規模禅宗様建築の傑作、清白寺仏殿

 現在の清白寺はそれほど大きな寺院ではないが、それでも総門、三門(鐘楼門)、仏殿、本堂が一直線上に並ぶという、禅宗寺院の様式に則った伽藍配置となっている。現在の清白寺仏殿が建てられたのは、開山より時代の下る応永22年(1415年)。室町時代の中期である事が、大正6年の解体修理で発見された墨書により判明している。桁行、梁行共に三間(7.2メートル)と小規模な仏殿ではあるが、こぢんまりと良くまとまった東日本における禅宗様の代表例として貴重とされる。禅宗様とは唐様とも言い、鎌倉時代に宋から日本に伝わった建築様式で、禅宗寺院の仏堂などに多く用いられてきた。




正面の桟唐戸(さんからど)と古式の花頭窓(かとうまど)

 清白寺仏殿は入母屋造の檜皮葺きの屋根に、裳階(もこし)と呼ばれる庇が巡らされている。外側に広がるように並ぶ扇垂木(おうぎだるき)や、軒下に隙間無く組物が並ぶ詰組(つめぐみ)などに禅宗様の特徴を見ることができるが、この清白寺仏殿の組物は他の禅宗様建造物と比べて比較的簡素なものとなっている。正面には桟唐戸が設けられ、その脇には花頭窓が開いている。この花頭窓は裾が広ってはおらず左右が垂直に降りているが、これは古式に見られる特徴だ。扉や窓の上部には、これまた禅宗様建築に良く見られる弓欄間(ゆみらんま)が巡らされている。




軒下の組物

 清白寺仏殿は内部もまた禅宗様の建築そのものである。柱は全て礎盤の上に立つ円柱で、床は漆喰で固めた土間となっている。中央後部には、仏殿と同時期に作られたと見られる須弥壇が置かれており、その前のスペースを広く取るために中央列の柱は省略されている。天井は一枚の板を張った鏡天井であるが、そこには巨大な墨画の雲竜が描かれており、また上部の部材にも色鮮やかな文様を見ることができる。一般的に、禅宗様の建築は彩色などを施さない素木造であることがほとんどだ。このように彩色が施されている禅宗様建築は、清白寺仏殿の他には京都の東福寺三門に見られるのみであり、仏殿としては唯一の例である。




重要文化財に指定されている清白寺庫裏(くり)

 江戸時代中期の天和2年(1682年)、清白寺は大規模な火災に見舞われ、仏殿以外の建物が全て焼失するという憂き目に遭った。その後、それらの建物は順次再建されていき、享保16年(1731年)には最後に残った総門の再建が完了。清白寺は再び元の伽藍配置に戻ったという。仏殿の東側には、茅葺の巨大な切妻屋根を持つ庫裏(僧侶の住居兼台所)が建っているが、この庫裏もまた天和2年の火災の後、元禄2年〜6年(1689年〜1693年)頃に再建された建造物であるという。整然とした平面に優れた意匠を持つこの庫裏は、江戸中期における禅宗寺院の庫裏として価値が高く、2005年に重要文化財に指定された。

2008年11月訪問
2011年08月再訪問




【アクセス】

JR中央線「東山梨駅」から徒歩約10分。

【拝観情報】

境内自由。

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