―榮山寺八角堂―
えいざんじはっかくどう
奈良県五條市 国宝 1952年指定 奈良県、紀伊山地を滔々と流れる吉野川。その流れは修験道の霊場として知られる吉野を横切り、和歌山県へと入って紀ノ川に名を変える。榮山寺は、和歌山県との境に位置する五條の手前、蛇行する吉野川が淵を作り、深い瑠璃色を水を湛える、その袂にたたずむ真言宗豊山派の仏教寺院である。奈良時代前期、強い力を蓄えていた藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)が建てた榮山寺には、同時代に建立された貴重な八角堂が現存しており、その深遠なる歴史を今に伝えている。現在、斑鳩(法隆寺界隈)や平城京(奈良市)以外で奈良時代の建造物が残る例は数少なく、しかも建築年代がほぼ特定できる榮山寺八角堂は、極めて希少な例として国宝に指定されている。 榮山寺は藤原南家の始祖である藤原武智麻呂が、奈良時代初期の養老3年(719年)に創建したと伝えられている。なお、創建当時は前山寺(さきやまでら)という名であり、榮山寺と呼ばれるようになったのは平安時代の事だ。創建者の武智麻呂は、藤原氏の祖である藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の孫にあたる人物で、死後は榮山寺裏手の前山に葬られた。以降、榮山寺は武智麻呂より代々続く藤原南家の菩提寺として栄え、隆盛を極める。南北朝時代には、南朝の行宮(あんぐう、天皇の仮宮)が榮山寺に置かれ、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇の三帝が座したという。戦国時代末期には戦火により、その伽藍は八角堂を残して焼失したが、その後再建され今に至る。 八角堂は、藤原武智麻呂の次男である藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が、亡くなった両親を供養する為に建てたものである。ゆえにその建造年は、武智麻呂が死亡した天平9年(737年)より後、かつ仲麻呂が死亡する天平宝字8年(764年)の間ということになる。しかしながら、武智麻呂が榮山寺の前山に埋葬し直されたのは天平宝字4年(760年)の事なので、すなわち八角堂は天平宝字4年から8年の間、わずか4年の間にその建造年を絞ることができるのである。また、東大寺正倉院に残る文書には、天平宝字7年(763年)の12月20日付けで「造円堂所牒」という記述があり、この「円堂」は榮山寺八角堂を表すものであると考えられている。 榮山寺の境内は、吉野川に面しその門を開いている。正面には本尊である室町時代作の薬師如来坐像を安置する本堂が建ち、その手前には弘安7年(1284年)との銘が打たれた栄山寺型の石灯籠が据えられている。本堂の左手には平安時代後期に作られた石造七重塔が置かれ、またその先には梵鐘が吊り下げられている。この梵鐘は延喜17年(917年)に鋳造されたものであり、その銘文は菅原道真が撰文し、書の達人である小野道風(おののみちかぜ)が書いたものであるとされる。また、鐘を吊り下げる部分である龍頭の飾りも非常に精巧であり、それゆえ京都の神護寺、および宇治平等院の梵鐘と共に、平安三絶の鐘と称され、国宝に指定されている。 榮山寺八角堂は、鐘楼の反対側、本堂の右手奥に位置している。その名の通り八角形の平面を持つ八角堂は、東西南北の四面に板扉を開き、それ以外の面には格子窓の連子窓(れんじまど)が設けられている。屋根は棟が頂点に集まる宝形造(ほうぎょうづくり)であり、垂木は二段に組まれた二軒(ふたのき)。頂点には石造の露盤宝珠(ろばんほうしゅ)が乗る。現在の宝珠は明治44年(1911年)の解体修理の際に取り替えられたものであるが、オリジナルは八角堂内にて今も保存されている。組物は一本の肘木(ひじき)に三つの斗(ます)が乗る平三斗(ひらみつど)で、その上にはさらに実肘木(さねひじき)が乗る。組物の間に入る中備(なかぞえ)は、間斗束(けんとづか)だ。 八角堂は外観こそ八角形であるが、その内部は四本の八角柱によって外陣と内陣が区切られている。この柱、および柱上部を水平に通す飛貫(ひぬき)、それと天井には、菩薩像や飛天、宝相華や花鳥などの絵画が描かれている。これらは八角堂の建立と同時期に描かれたものとされ、また東大寺大仏の蓮弁に見られる線刻画や、東大寺二月堂の本尊光背に見られる線刻画などと作風が類似している事から、それに関係する人物が描いたと推測される。藤原仲麻呂の権力は、東大寺の職人を動員できるほど強力なものであったのだ。これら内陣の装飾画群は、剥落が少なくないものの、後世による加筆も無く、奈良時代より残る装飾画として非常に貴重なものであり、重要文化財に指定されている。 2009年04月訪問
【アクセス】
JR和歌山線「五条駅」から徒歩25分。 【拝観情報】
拝観料400円、拝観時間9時〜17時。 ・法隆寺東院夢殿(国宝建造物) ・興福寺北円堂(国宝建造物) ・広隆寺桂宮院本堂(国宝建造物) ・五條市五條新町(重要伝統的建造物群保存地区) Tweet |