豊国神社唐門

―豊国神社唐門―
ほうこくじんじゃからもん

京都府京都市
国宝 1953年指定


 織田信長亡き後の桃山時代、名だたる戦国武将を打ち倒し、あるいは臣従させ、天下統一の偉業を成し遂げた豊臣秀吉。日本全土を平定したその男は、死後に豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)という神号を賜り神となった。江戸時代、徳川家康が豊臣宗家を滅ぼした後は、江戸時代を通じて秀吉を神として祀る事が禁止されたものの、明治時代に入ると「天下を統一しながら幕府を開かなかった尊皇の功臣」として評価され、かつて秀吉が創建し、大仏殿を築いた方広寺の境内に豊国神社が開かれた。その豊国神社の拝殿前に建つ唐門は、伏見城の遺構とされている。漆を塗り、彫刻や飾金具を施したその豪華絢爛な唐門は、桃山文化を代表する建築の一つとして国宝に指定されている。




豊国神社拝殿
豪奢な唐門に比べて、比較的簡素な建物となっている

 1598年(慶長3年)8月18日、伏見城にて秀吉が死去すると、その遺体は方広寺の東に位置する阿弥陀ヶ峰の山頂に埋葬され、山の中腹には壮大な豊国廟(豊国神社)が建立された。しかし江戸時代の1615年(元和元年)、大坂夏の陣にて豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康はすぐさま秀吉の神号を廃し、豊国廟もまた破却した。そしてその敷地と方広寺は、家康が祇園近くの綾小路から移転させた、妙法院の管理下に置かれる事となったのだ。なお、豊国廟に残されていたポルトガル国印度副王親書(国宝)など秀吉の遺宝は、その際に妙法院によって収奪されている。以降、江戸時代を通じて秀吉は幕府から冷遇を受け続け、豊国神社が再興されたのは明治時代に入ってからの事だ。




夕日を浴びて飾金具が輝く豊国神社唐門

 明治13年(1880年)、豊国神社は方広寺の大仏殿跡に再建された。その社殿の整備に伴い、南禅寺の塔頭である金地院から移築されたのが、現在豊国神社の拝殿前で堂々たる構えを見せる唐門だ。この唐門は、元は伏見城の城門であったという説と、かつての豊国廟の門であったという説があるが、現在は前者、伏見城の遺構であったとする説を採るのがが一般的である。いずれにせよ、一度は二条城に移築され、その後金地院へと渡ったようだ。比較的簡素な豊国神社の社殿と、巨大かつ煌びやかな唐門との対比は、かつて無数の金銀鉱山を有し、莫大なる富を蓄えながらもわずか二代で滅ぼされ、その後も長きに渡り封殺されてきた、豊臣家の盛衰を象徴するかのようである。




正面上部の欄間に見られる「目無しの鶴」

 豊国神社の唐門は、檜皮葺き入母屋造の屋根に巨大な軒唐破風(のきからはふ)を付けた、向唐門(むかいからはふ)の四脚門(よつあしもん)である。向唐門とは門の前後に破風が付く唐門の事で、四脚門は門柱の前後に二本ずつ、計四本の控柱を設けた門の事だ。部材は全て欅(けやき)であり、豊臣家の家紋である「五七桐」や、出世を象徴する「鯉の滝登り」など、随所に見事な彫刻が施されている。これらは桃山時代後期から江戸時代初期にかけて活躍した伝説的彫刻家、左甚五郎(ひだりじんごろう)の手によるものとされており、特に正面上部の欄間に見られる鶴は見事で、あまりに良い出来栄えであった事から、完成させると飛び立ってしまいかねず、あえて目を入れなかったという。




唐門の扉下部には鯉の滝登り、いわゆる登竜門の彫刻が施されている

 豊国神社の唐門は、全体的に黒っぽい色合いを呈しているが、これは唐門が建てられたその当時、全体が漆で塗られていた為である。彫刻もまた極彩色に彩られ、随所に金箔が押されていた、桃山文化らしい荘厳華麗を極めた門であった。現在、それらの彩色は経年により褪色してしまっているものの、要所要所に散りばめられた飾金具は往時の輝きそのままに、夕日に照らされ美しく輝いており、木部とのコントラストに思わず目を見張る。この豊国神社唐門は、同じく桃山文化を代表する装飾優れた本願寺唐門、及び大徳寺唐門と共に、国宝三唐門と称されている。ちなみに、豊国神社唐門の左右には8基の灯篭が並んでいるが、それは秀吉ゆかりの大名たちが寄進したものであるという。




大坂の役の引き金となった、方広寺に残る「国家安康の鐘」(重要文化財)の銘文

 前述の通り、豊国神社はかつて秀吉が築いた方広寺の境内に再興された神社であり、その北隣には方広寺が今もなお残されている。桃山時代には秀吉の庇護の下、多大な寺域を有していた方広寺であるが、現在は小ぢんまりとした境内に、本堂や鐘楼などわずかな堂宇が残るのみだ。鐘楼に吊るされている梵鐘は、秀康の子である豊臣秀頼(とよとみひでより)によって鋳造されたもので、銘文に「国家安康」「君臣豊楽」という文が入っていた事から、「国家安康」は家康の字を分断し、「君臣豊楽」は豊臣が栄えるという意味を持つとの言いがかりを付けられ、家康に大坂城へと攻め込む口実を与えてしまった。豊臣宗家滅亡のきっかけとなった梵鐘として、著名である。

2007年11月訪問
2010年11月再訪問




【アクセス】

「京都駅」より京都市営バス100、202、206、207系統で約10分「博物館三十三間堂前バス停」下車、徒歩約5分。

【拝観情報】

境内自由。

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