佐世保市黒島の文化的景観

―佐世保市黒島の文化的景観―
させぼしくろしまのぶんかてきけいかん

長崎県佐世保市
重要文化的景観 2011年選定


 長崎県佐世保市から平戸市にかけて、北松浦半島の西岸に連なる九十九島(くじゅうくくしま)。その中でも最大の面積を持つ黒島は、本土よりもやや温暖で亜熱帯植物が生育しており、また「水島」と称されるほど湧き水が豊富なことから中世より人々が定住していた。江戸時代後期には潜伏キリシタンが移住してきており、島内各所に集落を築いている。今もなお黒島には開墾による土地利用の在り方など環境に適応した特有の集落景観が良好に残ることから、「本村(ほんむら)」「東堂平(とうどうびら)」「古里(ふるさと)」「日数(ひかず)」「根谷」「名切」「田代」「蕨(わらべ)」の8地区を含む黒島全体と、昔から黒島の属島として放牧場や藻場として利用されていた「伊島」と「幸ノ小島(こうのこじま)」が国の重要文化的景観に選定されている。




興禅寺の境内から望む本村集落
かつて興禅寺では潜伏キリシタンを炙り出す踏み絵が行われていた

 黒島の名が歴史上に登場するのは、五島列島の中通島を本拠地としていた御家人の青方氏が文永8年(1271年)に記した「青方文書」が初出である。14世紀頃になると黒島最古の集落である本村が形成され、小村ではあるものの人々が生活を営んでいた。他の集落はまだ存在せず、江戸時代の絵図には唯一この本村だけが描かれている。人口が増加するのは江戸時代後期に潜伏キリシタンが移住してきてからのことだ。黒島には平戸藩の領土として軍馬を育成する牧場が置かれていたのだが、開墾を優先する方針によって享和3年(1803年)に廃止。江戸幕府の禁教政策による弾圧が激しい西彼杵半島の外海(そとめ)地区などから潜伏キリシタンが逃れるように移り住んできて牧場跡に畑を拓いた。




開拓による土地利用の在り方が残る蕨集落
家屋の前に防風林を備え、その背後を耕作地としていた

 古来よりの集落である本村地区、および18世紀末に針生島などから移住してきた集落である古里地区には仏教徒が多く住んでおり、それ以外の移住者による集落はほとんどがカトリック信者である。仏教徒集落は家々が密集する「集村」であるのに対し、カトリック集落は家々が分散する「散村」であるのが特徴的だ。これは移住元にあった分家の習慣が黒島に持ち込まれたものであるという。なお黒島は一年を通して風が強く、特に台風の来襲時には猛烈な南風にさらされる事から各家の前には防風林が設けられている。蕨や根谷など南部に位置する集落では、移住してきた人々が海から上がった場所に家屋と防風林を築き、その背後を畑とするなど、開墾の過程が良く分かる集落景観が広がっている。




根谷集落に残るアコウの巨木

 防風林にはスジダイなど自然林を利用したものと、アコウなど意図的に植栽されたものが存在する。アコウは枝や幹から伸びた気根が他の木々に巻きつくことから「絞め殺しの木」とも呼ばれ、蕨地区では石垣に絡みついたアコウの巨木を目にすることができる。一方で根谷地区にはアコウのみならず樹齢350〜400年に及ぶサザンカの巨木が生育している。これは文政期(1818〜1820年)頃に移住してきた潜伏キリシタンが隣家との境界に植えたもので、かつては種子から油を搾り、普段は使わないような貴重な食用油として重宝されていた。また黒島では昔から祝い事の時などに「ふくれ饅頭」を作る習慣があるが、饅頭を蒸す際に敷物として葉を利用するサツマサンキライは黒島が育成北限地である。




黒島で初めてミサが行われた、「信仰復活の地」である出口家

 元治2年(1865年)2月に長崎の大浦天主堂が建立されると、長崎周辺に散らばっていた潜伏キリシタンたちは大浦天主堂を訪れてプティジャン神父に信仰を告白した。黒島では慶応元年(1865年)5月に日数集落の出口吉太夫・大吉親子など20名が長崎へと渡り、黒島に600人の潜伏キリシタンがいる状況を報告している。出口大吉とその弟は洗礼を受けて伝道師となり、この兄弟の洗礼により黒島の潜伏キリシタンは次々とカトリックに復帰した。明治5年(1872年)にはポアリエ神父を迎えて出口家で黒島初のミサが執り行われており、また明治30年(1897年)にはマルマン神父の指導によって島の中央に位置する名切集落に現在まで残る黒島天主堂(重要文化財)が築かれている。




黒島に残る戦跡の一つ「旧黒島東砲台発電所」

 明治22年(1889年)に日本海軍の佐世保鎮守府が開庁し、明治44年(1911年)には佐世保軍港の区域が拡張されて黒島はその最外郭に位置付けられた。大正3年(1914年)には古里地区に東砲台、田代地区に南砲台が築かれており、現在も古里の集落内には探照棟及び格納庫、管制機雷を起爆する視発所、それらに電気を供給する発電所、兵舎の遺構や白木突堤などが残っている。これらの砲台は昭和18年(1943年)に廃されたものの、太平洋戦争の戦局が悪化した昭和20年(1945年)には、新たにトーチカ風の地下式砲台が築かれている。これらは外洋ではなく本土側を向いて築かれており、連合国軍の本土上陸に備えたものであったが幸いにも使用されることはなく終戦を迎えた。

2018年05月訪問




【アクセス】

佐世保市「相浦港」から「フェリーくろしま」で約50分。
島内交通はシャトルバス、レンタサイクルあり。

【拝観情報】

散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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