大浦天主堂

―大浦天主堂―
おおうらてんしゅどう

長崎県長崎市
国宝 1953年指定


 鎖国体制にあった江戸時代において、西洋との唯一の窓口であった長崎。幕末の安政5年(1858年)に安政五カ国条約が締結されると外国人の市街地立ち入りが許され、長崎港を望む東山手・南山手に外国人居留地が設けられた。そのうち南山手の中腹にたたずむ大浦天主堂は、フランス人宣教師のルイ=テオドル・フューレ神父およびベルナール・タデー・プティジャン神父によって元治元年(1864年)に建てられた教会堂で、明治12年(1879年)の大規模増改築により現在の姿となった。日本に現存する最古の教会堂であり、また浦上の潜伏キリシタンたちがプティジャン神父に信仰を告白した「信徒発見」の舞台でもあることから、大浦天主堂は西洋建築として初めての国宝に、境内は史跡に指定された。




正面に聳える八角尖塔と「天主堂」の文字
神父は日本に信徒が残っていることを期待して日本語で記した

 文久2年(1862年)にフューレ神父が横浜から長崎へ赴任し、外国人居留地に住むフランス人の為の礼拝堂として教会堂の建設に着手した。翌年の文久3年(1863年)に赴任したプティジャン神父と共に設計を行い、天草御領村出身の小山秀之進(こやまひでのしん)を棟梁として元治2年(1865年)に完成した。当初は二十六聖殉教者堂と名付けられ、その名の通り慶長元年(1597年)に豊臣秀吉の令によって京都・大坂で捕らえられ長崎で処刑された26人のキリシタン「日本二十六聖人」に捧げられた教会であり、教会堂の正面は殉教地である西坂の丘を向いている。当初は木造で三本の塔を持ち、内部はゴシック式ながらも正面はバロック式で、外壁は海鼠壁とする特異な外観であった。




境内に掲げられている「信徒発見」の様子を描いたレリーフ

 2月19日に竣工して間もなくの3月17日、大浦天主堂は「フランス寺」と呼ばれ、珍しい西洋風の建築を一目見ようと数多くの人々が訪れていた。その見物客に紛れて浦上の潜伏キリシタン15名が大浦天主堂を訪れ、プティジャン神父に「ワタシノムネ(信仰)、アナタトオナジ」と囁き信仰を告白したという。この「信徒発見」以降、長崎やその周辺に住む潜伏キリシタンたちは次々に大浦天主堂を訪れて神父に指導を仰ぎ、カトリックに復帰していった。しかしながらまだ禁教下にあったことから、幕末から明治初頭にかけて「浦上四番崩れ」や「五島崩れ」といった激しい弾圧が勃発。その事件を知った西洋諸国の抗議により明治政府は禁教令を解き、約250年にも及ぶ禁教の時代が終わりを告げた。




ゴシック式の尖頭式アーチ形窓が連なっている

 禁教が解けると日本人の信者が増加したことから教会堂が手狭となり、明治8年(1875年)から明治12年(1879年)にかけて大規模な増改築が行われた。三廊式の間口を左右に一間ずつ広げて五廊式となり、奥行きも深めて元の二倍の大きさに拡張された。煉瓦で築かれた外壁には白漆喰が塗られ、外観も完全なるゴシック式に改められた。身廊と側廊の天井は西洋教会特有の八分割リブ・ヴォールト天井である一方、漆喰の下地には日本建築の伝統的な手法である竹小舞が用いられている。明治24年(1891年)にはカトリック長崎司教区の司教座聖堂(カテドラル)に定められ(昭和37年(1962年)に浦上教会に変更)、大浦天主堂は長崎におけるカトリックの中心地として崇敬を集めていった。




神学校の校舎兼宿舎であった「旧羅典神学校」(重要文化財)

 大浦天主堂の他にも境内には「旧羅典神学校」「旧長崎大司教館」「旧伝道学校」の歴史的建造物が存在する。「旧羅典神学校」は明治8年(1875年)に日本人司祭を育成すべくプティジャン神父によって設立された長崎公教神学校の校舎兼宿舎として建てられたもので、その設計は慶応4年(1868年)に長崎へ入ったマルク・マリー・ド・ロ神父の手による。明治初期における大型の木骨煉瓦造として貴重であることから国の重要文化財に指定された。ド・ロ神父は石板印刷の技術を身に着けていた宣教師であり、潜伏キリシタンに伝承されていたポルトガル語由来の言葉を用いた教理書を印刷し、各地の潜伏キリシタンにカトリックへの復帰を促したという。




ド・ロ神父と鉄川与助が共同で築いた「旧長崎大司教館」

 「旧長崎大司教館」はかつて宣教師が住んでいた司祭館で、長崎教区の本部としても使われていた。大浦天主堂に先駆けて文久2年(1863年)に建てられた司教館が老朽化したことから、大浦天主堂創建50周年事業の一環として大正4年(1915年)に建て替えられた。設計はド・ロ神父および教会建築の名手として知られる鉄川与助が共同で行い、その際に鉄川与助はド・ロ神父から西洋建築についての指導を受けたという。ド・ロ神父は旧長崎大司教館の建設中に足場から落下してしまい、それが元で持病が悪化して死去したことからこの建物が遺作となった。また大浦天主堂の裏手上方に位置する「旧伝道学校」は大正時代に伝道学校として建てられ、修道会の本部などとして使われてきた建物だ。

2018年05月訪問




【アクセス】

JR九州「長崎駅」から長崎電気軌道「正覚寺下(崇福寺)」行きで約10分、「築町」で乗り換えて「石橋行」行きで約10分、「大浦天主堂」下車徒歩約5分。
JR九州「長崎駅」から長崎バス「田上」行きで約15分、「大浦天主堂下」バス停下車徒歩約5分。

【拝観情報】

・拝観時間:8時〜18時(入場は17時45分まで)。
・拝観料:大人1000円、中高生400円、小学生300円。

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